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| 2001.10 MCRJニュースレター より |
| MCRJ Archive モア・アバウト・ミニより パディ・ホプカークの63年RACラリー・ワークスミニ BMCが1960年代の国際ラリーの舞台にミニを持ち込んだ時、彼らのワークスチームの努力はラリーだけの成功を超えて、マネジメント側からの全体的なコミットメントに裏打ちされたものであった。合計で約67台のワークスミニが登録されたが、ここにその内の3台をプライベートコレクションとして所有する男がいる、、、。 サマーセットのマークにてミニのレストレーションとレース準備を行う「クラシック・クーパーズ」社を主宰するデビッド・ギルバートは、パディ・ホプカークが1963年のRACラリーに使用した「8EMO」を所有している。彼はまた、1966年の同ラリーに総合4位に入賞した「GRX 310D」そしてこれまた負けず劣らずの「GRX555D」―この車両は1966年のモンテカルロ・ラリーに優勝したものの、フランス勢がシトロエンを勝たせるための策略によって、エントリーしたその他の英国車とともにその後失格にされてしまった― をも所有しているのだ。 デビッドのこれらの車両との係わりは、1968年に地元の自動車クラブ主催の夜間ラリーに、ナビゲーターとして出場したことに始まる。 「当時私は、スプリントレースやヒルクライムにも手を出してました。」と彼は説明を始めた。「それ以前から私はずっと、ワークスのクーパーSの偉業に感銘を受けていて、地元のイベントにワークスミニのレプリカを作って出場してやろう、と決めていたのです。」 4年後にデビッドは、モータリング・ニュース誌の広告に本物のワークスカーが売りに出ているのを発見。この頃にはミニのモータースポーツにおける全盛期は、エスコートやポルシェ等の猛襲に敗れて色あせたものになっており、彼はその車両をリーズナブルな価格で手に入れることができたのであった。一年後、部品探しをしているとき、デビッドは偶然にも同じように誰かに話しかけ、もう1台の元ワークス・ミニが新しいオーナーを求めているという情報を得る。今度のはGRX 310Dであった。これはラウノ・アルトーネン、その後にはパディ・ホプカーク、ティモ・マキネンがドライブした車両そのものであった。 デビッドはこの車両の追跡調査をし、ついにBMC競技部門の副チームマネジャーであった人物から入手することに成功する。この人物は何と自分の女房の「買い物グルマ」用に自宅に持ち帰ったとのことであった。ファストフードの話をしているようだ! レストアが開始され、完成したのは何と1979年のドニントンで開催された、ミニ20周年誕生パーティーの当日であった。 「本当に誇張なく、当日の朝2時にクルマが仕上がったのです。で、そのまま真っ直ぐドニントンに向かいました。」とデビットは説明を続ける。「パディ・ホプカークとジョン・クーパーがその日のコンクール審査員で、パディがこの車両に近づいてきて、そして突然立ち止まったのです。彼は、傍から見ても分かるくらいに、2度と見るはずがないと思っていたこの車両を呆然と眺めていました。車両の周りをぐるぐると回っては、ジョン・クーパーが他の車両の審査をする必要から彼を呼びに来るまで、じっくりと吟味しているようでした。」 「10分ほど経って、パディが戻ってきたのです。」デビッドは続ける。「彼は明らかにこの車両をもう一度見るために戻ってきて、コンクールに勝ったことを告げるだけでなく、この車両を譲ってはもらえまいかと私に打診してきたのです。私は、まだレストアが終わったばかりでそのままトレーラーに積んできただけで私自身運転すらしてないんです、とお断りしたものでした。その次に彼が私に頼んできたのは、1982年のRACゴールデン50ラリーに、車両を貸してくれないかと尋ねてきた時でした。」 デビッドと8EMOはほんの偶然から結ばれた。彼はその頃、時代物のハルダのトリップマスターを探していて、誰かとミニのラリースペックの違いについて話し合っていたという。 「私がワークスカーを持っていることを告げると、電話の向こうの相手が「私も1台それを持っている。しかもそれは売り物だ」というではないですか!」 競技に出ていた現役当時、8EMOには3種類全てのエンジンサイズが搭載された。パディ・ホプカークのドライブによる1963年のRACラリーと、ヘンリー・リドンが総合4位に導いた1964年のそれには1071cc Sエンジンで始まった。その1年後の1965年のモンテカルロ・ラリーには、レイモンド・バクスターとジャック・スコットのドライブにより、970ccのSエンジンを搭載。当時、BMC競技部門のトップであったスチュワート・ターナーが、著名なコメンテイターであったレイモンド・バクスターには無条件で車両を貸与したのであったが、それは実に効果的なPRであった。 その後は1275ccユニットが装着され、プライベートエントリーしたノーザンプトン州の上級警察官、ジョン・ゴットによってベルギーの警察ラリーに出場し、最終的には売却された。 「この競技の後、この車両は哀れな状態になったのです。」とデビッド。「フロアパンは既に腐り果て、バルクヘッドもまたひどい形状になってました。その上部は様々なイベントの間に軽量化のために切り取られており、最終的に私は、最上の方法は新しくボディシェルを載せ換えることだと判断しました。」 テリー・ミッチェルという名前の人物が、MK1ミニのパネルを売りたい旨の広告を出していて、デビッドが電話をすると、彼が元アビンドンの開発技術者であり、ラリー・ミニ用の特製ブラケットや強化パーツを生み出していたということが分かったのだ。このようにしてデビッドはBMCで完全なMK1シェルを部品として注文することが出来たのだ。 「彼に会ったときに彼が言うには、もしパネルとして買うのを望まないなら、新品のミニのシェルを売ってもいいよ、ってね!」デビッドは続ける。「結局私は部分パネルを買って、週末を利用してオリジナルと全く同じ手法で溶接したのです。これらの初期型のワークスカーは市販型と全く同じく、スポット溶接されているだけだったのです。その後まもなくメカニカル・フューエルインジェクションとさらに大きなエンジンが搭載されるようになってシャシーの負荷が増大し、ワークスカーには縫合溶接が導入されるようになったのです。」 8EMOのインテリアの大部分はオリジナルのままで、このことはこの車両がロールバーを装着していないことを意味している。現代の森林ステージでは考えられない! サスペンションは1965年のモンテカルロ・ラリー用に、BMCが強力に売り込みにかかっていたハイドロラスティック・システムに変更された。この年5台のワークスカーのうちの4台がハイドロラスティックを装備して出場したが、このイベントを制したのは、皮肉にも「スティール・スプリング」装着車両であった!ハイドロラスティックは荒れた路面では明らかに優れていたが、舗装路では「スティール・スプリング」に分があった。 (スティール・スプリングと訳したが、これはドライサスをもじった意味か=編集部) ![]() この車両のその他の部分のスペックは、ミニのエンスージャストには馴染みの深いものだろう。すなわち、1.5インチのSUキャブの1275ccエンジン82馬力、ダウントン製シリンダーヘッド、4速クロスレシオのストレートカット・ギヤに加えてサンプガードとブレーキホースの保護装備。現代の基準をもってすれば取るに足らない内容ではあるが、この車両からは明らかに、トップスピードよりも信頼性を重視した姿勢が読み取れる。 高度にチューニングされた小排気量車としてのワークス・ミニをドライブすることは、常に喜びに満ちている。現代車のほとんどが忘れてしまった、カミソリのように鋭いエンジンとシャシーのレスポンス。このことには例外はない。ワークス・ミニはたったの82馬力しかないにも係わらず、8EMOのように軽量化された車両では実に効果的である。 タイトに曲がりくねったサマーセットの田舎道において、充分にチューニングされたGTiに追従できたことは信じがたいことであった。 ミニのボディサイズの小ささが各コーナーで理想的なラインを取ることが出来、まるでゴーカートの如きハンドリングと瞬時に反応するスロットルは、82馬力が充分なパワーであることを教えてくれる。 私はこれまでに3台もの、パディ・ホプカークの有名なラリーミニに試乗した経験がある。すなわち1963年のRAC車両、パディ所有の1992年ピレリ・クラシックマラソン優勝車両、そして1964年のモンテカルロ・ラリー出場車。 どれが最良だったかって? 正直に言ってこれら3台は全く異なるスペックで製造されたために、直接的な比較はほとんど意味がないと思う。どのクルマを私をニヤッとさせたと言えば充分だろう、、、。 ![]() |