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| 2001.02 MCRJニュースレター より |
| MCRホームページより MCRオフィシャルホームページより翻訳 ![]() ジョン・クーパー 1923-2000 最後のミニクーパーが、生産ラインを離れて41年の継続生産に終止符を打ったのは僅か3ヶ月前。今度は、ミニを文化的記号にまで昇華させた本当の立役者と誰もが認め、誰もが愛して止まないジョンクーパー御大その人がクリスマスイヴの日、旅立っていった。享年77歳。 ジョンの父チャールズは1919年、サービトンにおいてガソリンスタンドと新車販売会社を設立する一方で、週末になるとモーターレースに興じていた。ジョンは1923年に生まれ、幼いころからクルマやモータースポーツにどっぷり浸った環境下で育った。学校を卒業するとすぐに父の会社の一つに見習工として就職。戦時中には航空機の計器メーカーで従事した。1946年になると、リヤに500ccのモーターサイクル用エンジンを搭載したフォーミュラー3の共同設計車両の生産を開始することになる。この車両は純粋に彼らの趣味のためのものではあったが、スターリン・モスやピーター・コリンズなどもこれを購入し、商業的にも大いに成功を収めた。 チャールズとジョンは同一の設計思想に基づき、フォーミュラー2へ、そして1957年には遂にフォーミュラー1へとステップアップしていったのである。 この当時、ジョンは英国や欧州でレースに参戦していたが、遂に引退してレースマネージングを行うことを決意する。英国初のF1チャンピオン、マイク・ホーソーンはクーパー・ブリストルに乗って、ジョンからF2の操縦方法を学んだ一人である。 1958年、遂にこの英国のレースチームが世界に名を知らしめる時がやってきた。舞台はアルゼンチンGP。クーパークライマックスに乗るプライベーター、スターリン・モスが、一度もタイヤ交換することなくレースを走り抜き、勝利を収めたのだ。 これがF1界に技術革命をもたらすきっかけとなったのである。今ではF1と言えばリヤエンジンが当たり前であるが、当時のクーパーのリヤエンジンは異色であった。 ゆっくりとではあったが、しかし確実に全てのグランプリカーがこの方式を採用し、今日にまで至るのである。 その翌年には、クーパークライマックスを駆るジャック・ブラバムがF1チャンピオンを獲得し、同時にクーパーはコンストラクターズ・タイトルを得る。 引き続き翌年1960年、もう一人のドライバー、ブルース・マクラーレンが首尾よくタイトルを獲得する。 他チームもこの技術に追従しさらに発展させていったが、中でもコーリン・チャップマン率いるロータスが顕著であった。 F1におけるクーパーの影響力は次第に低下し、1964年に父チャールズが他界すると、ジョンはチームをチップステッド・ガレージに売却してしまう。このチームはクーパーの名称を継承してレースを続け、新しいオーナーの元である程度の成功を収めた。 戦後まもなくのスターティング・グリッド上における、ジョンのライバルの一人にアレック・イシゴニスがいた。(これが誰よりも早く、ジョンがミニを運転できた理由だ) その傑出したハンドリングとロードホールディングに、ジョンは大いに感銘を受ける。 クーパーはイシゴニスに、この車両のレーシングカーとしての可能性を伝えた。 イシゴニスは最初、彼に車両を販売することを躊躇したが、この「マニファクチャラー」はことのほか熱心であった。 結局その2年後の1961年、最初のミニクーパーが世に出ることになる。 1962年のチューリップラリーでの勝利に対するマスコミの熱狂と共に、ファッション界、当時のスター達、ピーター・セラーズ、マーゴット・フォンタナ、そしてリンゴ・スターの購入は、このクルマの成功を約束するに充分であった。 1963年に発表されたミニクーパーSは、1964年、1965年、1967年の3度のモンテカルロラリーでの勝利(1966年の論争を巻き起こした勝利を語るまでもなく)によって、更なる名声を得ることになる。他にも多くのラリーでの勝利、アルパイン、チューリップ、ツールドフランス、サーキットオブアイル、1000湖、などなど。 ラリーでの成功は、とりわけパディ・ホプカーク、ティモ・マキネン、ラウノ・アルトーネンのような経験あるドライバーを輩出した。 1963年キングストンバイパスにおいて、ジョン・クーパーは開発中のツインエンジン・ミニをテスト中に重大な事故を起こしてしまう。 1962年、ブリティッシュ・サルーンカー選手権において、クーパーは1000ccクラス優勝と初の総合優勝を勝ち取る。1964年には再び1000ccクラス優勝と、今回は欧州選手権総合優勝を得る。この偉業は継続し、1968年と1969年にも再度、ブリティッシュ選手権獲得を成し遂げる。記録によると、1962年から1969年の間毎年、1000ccまたは1300ccクラスで、英国または欧州のいずれかのサルーンカー・チャンピオンを維持したことになる。 1969年には映画イタリアン・ジョブが放映され、この小さなクルマはさらに大きな国民の心を掴んだ。赤と白と青のクルマがマイケル・ケインとノエル・コワードというスターを生み出し、さらなる車両の販売成績に貢献した。 1970年代に入るとクーパーのレース活動に終止符が打たれる。 1971年、ブリティッシュ・レイランド(BMCの後継会社)はコスト削減を狙って、出し抜けにクーパーのネーミングを取り払ってしまう。 その時点までに15万台以上のクーパーが製造されていた。 ジョン・クーパーはサセックス州ウォーシングに転居し、ホンダ車のディーラーとミニのアクセサリー販売で、小さいながらも成功を収めていた。 ミニは1990年代に入っても、ローバー社によって依然として生産継続されていたが、同社はミニクーパーの再発売を決定し、2000年の10月まで継続生産されることになる。ジョン・クーパーガレージでは独自にモディファイした車両や交換キット、アクセサリーを打ち出した。 ジョン自身は、今や共同経営者となった息子のマイケルと共にミニクーパーの伝説の布教のために数限りない公の場への出席をこなした。 ジョンは2000年の叙勲リストに、モーターレーシングでの活躍により、英帝国勲爵士の栄に輝いた。 「父は、来年の夏にBMWが発売する新型ミニに、クーパーの名称が引き続き継承されることを本当に誇りに思っていました。」息子のマイケルは言う。「新型ミニを1台手に入れて、ある日家の外で父の周りを回ったんですけど、その時はもう具合が良くなくて、見つめていただけでした。ちょっと手に入れるのが遅過ぎましたね。」―独立の日2000年12月26日より抜粋。 ジョンは1986年のミニクーパー・レジスター発足以来、会長を務め、主催イベントの常時運営に従事した。 ご家族と同社の皆様に謹んで哀悼の意を申し上げます。 |